一晩で100万円…江戸の「売れっ子遊女」がめちゃくちゃ優雅だったワケ

 武士は刀を預け、商人の権威も通用しない。桃源郷では、つねに三味線の音が響き、絢爛豪華な美女たちが微笑みかけている。そこでは、肉体的官能のみならず、今に通ずる日本文化もまた咲き乱れていた。

肌うるわしく暖かく

 「江戸時代の遊郭は、現代にも影響を与える文化の基盤でした。遊女は高い教養を持ち、歌や三味線、生け花をたしなみ、年中行事も行い、豊饒な日本文化を継承してきた。大正・昭和のイメージから、単なる娼婦の集まる場所と考えるのは、誤解です」

 法政大学前総長で、10月20日に『遊廓と日本人』(講談社現代新書)を刊行する田中優子氏がそう語るように、江戸期の遊郭はいわゆる風俗街とは異なり、多様な文化の発信地・継承地となった。

 遊郭の世界に分け入ることは日本人が培ってきた文化を学ぶことである。最新研究の知見も交えつつ見ていこう。

 風俗は世界最古の職業とも言われるが、日本でも古くは万葉集に遊女が登場する。各地に点在していた遊女たちを集めて遊郭をつくり、それを公認するという考え方が生まれたのは、江戸時代のことである。

 「江戸幕府が開かれて30年ほど経つと、鎖国や参勤交代などの独特の支配体制が整えられますが、遊郭の文化と様式もそのころにつくられました。幕府公認の遊郭は、大坂の新町、駿河の府中、安芸の宮島など全国に25ヵ所以上もあったんです」(田中氏)

 数ある遊郭の中でも最大の規模を誇ったのが、新吉原遊郭だった。日本橋から移転して置かれた区画(東京都台東区)には現在、風俗店が百数十軒ほど並んでいるが、その碁盤目状の区画割りは当時からほとんど変わっていない。

 「畑の中に人工的につくられた、270m×360mの小さな町でした。吉原大門1ヵ所からしか入れず、遊女たちを抱える遊女屋、客が予約や食事をする茶屋などが建ち並んでいました。客は茶屋で着替えや宴会をした後、遊女屋の2階に案内されて、遊女と床をともにしたんです」(田中氏)

 遊女屋(妓楼)には最上級の大見世から中見世、小見世という格の違いがあり、1軒の大見世は60~70人ほどの遊女と禿(童女)を抱えた。

 吉原で働けるのは最長10年、27歳までという原則があった。遊女は1700年前後には2000人ほどだったが、文化・文政年間(1804~30)には5000人ほどに増えたという。

 遊女は昼12時ごろまでに身支度を整えて待機する。そこから客を迎え始め、16時に一度休憩を取ると、日没後から再び客を取る。客と一晩をともにした場合は、夜明け前に見送った後に二度寝するという一日を送る。

 遊女が売れっ子になる要素はまずもって、「床上手」であることだった。

 たとえば、井原西鶴の『好色一代男』(1682年)に登場する野秋という遊女―。

 「肌がうるわしく暖かく、髪が乱れるほど夢中になり、腰が畳を離れて浮き、それがわざとらしくなかった。

 声をあげながら男が達しようとするところを9度も押さえつけ、どんなに精力強靭な男でも乱れに乱れてしまう。そして別れるときには優しい声で『さらばや』と言う。これが『床上手』の意味でした」(田中氏)

 また、大坂・新町遊郭を舞台にした『色道諸分難波鉦』(1680年)には、「尻を締めて、わが身を左右へゆる廻しさします。尻をしむれば、玉門しまる故により」と、肛門を締めて膣口を操る秘技を持つ遊女もいたという。

客にも流儀がありんす

 客を惹き付ける遊女の技術は「手練手管」と呼ばれたが、高い教養もまたその一つであった。

 「遊女たちは着物の着こなしもうまく、三味線を弾き、踊りや能の舞も披露していました。性的なことだけではなく、高度に文化的なもてなしを求める客も多かったので、日本文化の体現者となることが遊女には期待されていたのです」(田中氏)

 馴染みの客がなかなか来てくれないとき、「会ひたく」ではなく、「会ひましたく」と書くと優しく感じられてよいというように、遊女は手紙の書き方まで研究していた。

 そんな吉原では、「言いなます」「参りんした」などの独特な吉原語が飛び交い、様々な年中行事も行われた。

 「正月に新春祝い、3月には桜まつり、お盆の季節には様々な芸術家がつくった灯籠が並べられて、街は美術館のように美しくなります。遊女は一年の循環、季節の象徴でもあったのです」(田中氏)

 客となる男にも、遊郭の流儀が求められる。遊女の品格に劣るまいと、髭は徹底的に剃り、体毛も抜き、ちょんまげをネズミの尻尾のように細くした。黒や藍のような地味な色の着物を重ね、清潔感と渋さを強調した。男性性を消し去った格好が、江戸のダンディズムだというのである。

 ひとりの遊女と馴染みになると、他の遊女と遊んではならないという掟が客にはあった。他の遊女との「浮気」が発覚すると、馴染みの遊女は男の着物を脱がせて女装させ、罵詈雑言を浴びせながら、炭で顔に落書きすることさえあったという(『吉原青楼年中行事』)。

 最上級の遊女である「太夫」と宴会をして一晩をともにした場合、貞享・元禄年間(1684~1704)の記録では、一晩で10両(約100万円)という大金を払う必要があった。太夫と実際に遊べるのは、豪商や大名くらいだったのだ。

 「元禄時代の豪商、紀伊国屋文左衛門が吉原遊郭自体を借り切ったとか、節分のころに遊女屋で豆の代わりに小判をまいたという伝説がありますが、その当時はバブル期のようだったんですね。当時最も贅沢なおカネの使い方は、吉原での豪遊でした」(『図説吉原事典』の著者で作家の永井義男氏)

 なかには、有名な太夫と一度座敷で一緒に過ごしただけで「もう思い残すことはない」と自殺した男性もいたという。最近の研究によると、その影響は吉原だけではなく地方にも及ぼした。その内容は後編の「江戸の「遊郭」はこんなに凄い…日本の「遊女」が世界中から注目を集めた、驚きのワケ」でお伝えする。

 『週刊現代』2021年10月23・30日号より

掲載:https://news.yahoo.co.jp/articles/b934a123e26b5ffd9d271e651f27c1485e901bb1?page=2

最後に…

木村風俗太郎

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