「女将が宴会中盤『気に入ったコがいたら宜しく』と…」会社の慰安旅行先が“ヤバい島”だった若手社員の告白 から続く
公然と売春が行われる“ヤバい島”として、タブー視されてきた三重県の離島・渡鹿野島。「売春島」と呼ばれているこの島の実態に迫ったのが、ノンフィクションライター、高木瑞穂氏の著書『 売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ 』(彩図社)。単行本、文庫版合わせて9万部を超えるベストセラーとなっている。
著書刊行後も取材を続ける高木氏は、今回新たな原稿として、男性客の視点で最盛期の渡鹿野島を描いた「 『売春島』外伝 」を公開した。そこで、「文春オンラインTV」(12月28日放送)では高木氏にインタビューを敢行し、原稿に書ききれなかった秘話を語ってもらった。
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■全盛期に「売春島」を訪れた2人の男
――高木さんが取材を続けている「渡鹿野島」とはどんな島なのか、改めて教えてください。
高木 三重県志摩市の東部にある的矢湾の中央部にある、伊勢志摩サミットで有名になった賢島からほど近い小さな島です。周囲約7キロ、人口200人ちょっとで、渡鹿野渡船場という船着き場からポンポン船と呼ばれる小型船に乗って3分ぐらい。スナックやパブを隠れ蓑にした、置屋と呼ばれる娼婦のあっせん所が、最盛期には13軒ぐらい点在していた、管理売春で栄えたという島ですね。
――今回公開した「 『売春島』外伝 」の記事では、渡鹿野島を訪れた2人の男性の体験談を取材されました。
高木 1人目は1989年夏に渡鹿野島を訪れた大阪在住の前田さん(71、仮名)。飛田新地などにも訪れていた前田さんですが、当時渡鹿野島の噂は聞いたことがなかったと話していました。島に1人では行くのは怖くて、雑誌で初めて知ってから2~3年後になってようやく友達を誘って訪れたそうです。
――当時は島の全盛期だったのですか?
高木 そうですね。いろんな関係者に話を聞くと、一番盛り上がっていたのは1981年ごろらしい。(衰退していく)転機となるのが、やはりバブル崩壊なので、90年代の頭ぐらいまでは全盛期と呼べるんじゃないかと思います。
――最盛期の渡鹿野島は、どんな様子だったのでしょうか?
高木 船着き場に着くと、客引きのおばちゃんが何人か寄ってきて、「お兄さん、遊びぃ」みたいな感じだったそうです。前田さんは初めてなので怖くてホテルに直行すると、部屋にはピンクコンパニオンの案内チラシがあった。仲居さんに「どういうことができるの?」と聞いても、「楽しいことができるよ」みたいなあいまいな感じだったということでした。
結局、前田さんは置屋に行った。料金は、ショートとロングというのがあって、ショートが60分2万円、ロングが夜11時から翌朝7時までで4万円というのが、この島の一般的な遊びの価格です。
■異国情緒を味わえる「リトル歌舞伎町」だった
――これは当時の相場としては高いのですか?
高木 ショートの2万円はちょっと割高だと思うんですけど、ロングの4万円は結構リーズナブルかもしれません。女の子の部屋に行って「自由恋愛」という建前で一夜を共にするんですが、例えば夜11時に女の子の家に一度行った後に、女の子と一緒に外に出て居酒屋に行っても大丈夫。外出自由なんです。まあ自由恋愛なので当たり前なんですけど(笑)。前田さんは、フィリピン人女性とロングで一夜を共にしたそうです。
――前田さんはどんな感想を持たれたのでしょうか?
高木 離島だし相手がフィリピン人だし、「異国情緒を味わった」と言っていました。全盛期は、ヌードスタジオと呼ばれている小規模なストリップ劇場、置屋、ホテル、ゲーセン、ポーカー喫茶、あと裏カジノまであった。一時はボートレース場まで作ろうという計画があったりとか。「飲む、打つ、買う」に事欠かない、小規模な歌舞伎町みたいな島だったんです。
■「飯食いに行くぞ」と連れていかれたのが“売春島”
――「外伝」ではもう1人、名古屋在住の加藤さん(55、仮名)にも取材されていますね。
高木 加藤さんは当時不動産会社の営業マンをしていて、会社の慰安旅行先が「売春島」だったという方です。1993年頃、日中ゴルフをして、夕方過ぎになって「飯食いに行くぞ」と言われて連れていかれた先が渡鹿野島だったそうです。
――本人的には「エッ」という感じだったんですかね。
高木 まったくそんな気はなかったんですけど、いきなり宴会が始まって、20代の着物を着た日本人の女性がぞろぞろと十何人とか入ってきて、お酌をして回ってという感じで。その中の1人、20代前半の女性がなかなか加藤さんの元を離れない。不思議に思っていたら先輩から「お前はこの子を指名しなきゃ駄目だぞ」と言われて、それで何となく理解できたと。
――宴会の後は、その女性とホテルか何かに行かれたんですか?
高木 ホテルの階段の下の部屋、3畳ほどの物置みたいな小部屋に移動したそうです。一夜を共にするのかなと思ったら、自分の境遇をいきなり語りだしたと。若い者同士だったので、心を許したのかもしれません。
その内容が結構ディープな話で、男に名古屋の繁華街でナンパされて、「ちょっと旅行に行こう」と連れて行かれた先が渡鹿野島だったと。島に着いたら、その男が「トイレ行ってくるわ」と言って消えて、おかしいなと思ったら、置屋のママが現れて「あんた、今、2000万で売られたから」と言われたというんですね。
――でも、その女性はナンパされただけで、男性に何か借金をしていたわけでも何でもないわけですよね。
高木 何でもないです。これは本当に単なる人身売買ですよね。
――それでも逃げられなかったんですか?
高木 常に監視されていて、買い物も月1回。しかも女の子集団で、男が常に監視している。電話はかけられるんですが、1日1回実家にかけるだけ。しかも近くに見張りの男がいて、他にはかけられない。なぜ実家に電話をかけられるかというと「元気だよ」と毎日言うことで、要は家族に失踪届とか捜索願を警察に出されないためなんです。
■借金を返すまでは「1日1000円」
――本当に怖いですね。作り話のような感じもしますけど……。
高木 ちょっと僕も最初は女性の話を疑ったんですよ。2000万って金額もあって。今まで取材で聞いていたのは200万、300万がせいぜいだった。ただ、むかし沖縄にあった栄原という置屋街に売り飛ばしたスカウトマンが「800万」という金額を口にしたことがあったんですよね。
加藤さんもおかしいと思って、名古屋に帰った後、その道に詳しい先輩に聞いたら「多くはないけど、ある話だ」と。女性をソープで働かせて毎月100万円受け取るより、渡鹿野島に売って、1回で2000万もらったほうが得だと言うんですね。確かに全盛期の渡鹿野島は、女性1人で月200~300万稼ぐことができたとされる。そう考えると2000万もあながち嘘じゃないかなと、僕は思いました。
――「文春オンラインTV」をご覧いただいている視聴者からは、「その女性はお給料をもらえないの?」という質問がきています。
高木 お給料は、借金を返し終わったら、ショートとロングが(置屋と)折半になるので、ショートだったら1万円、ロングだったら2万円受け取れる。でも借金を返し終わるまでは受け取れず、借金の返済に充てられ、島内でお菓子や飲み物、タバコを買ったりするお金として日に1000円程度しかもらえないんです。
――つらいですね。たった20~30年前の話とは思えません。
高木 そうなんです。江戸時代の話じゃない。僕の取材だと、2013年頃までは売られた子がいたと聞きました。その頃はまだ置屋も5~6軒あって、女の子も30人ほどいた。タイ人と日本人が15人ずつくらい。ギリギリ稼げた時期でした。それ以降は伊勢志摩サミットなどもあって島が疲弊していって、「女を売れない」という表現が正しかったんだと思います。
■「あそこの置屋の子だね」と島の人は奢ってくれた
――視聴者からは「飛田新地は話題にならなくて、売春島が話題になる理由は何ですか?」という質問もきています。
高木 やっぱり陸続きではない「売春だけで成り立っている島」だったことが大きいと思います。文献を紐解くと四国や広島にもあったという話はありますが、それが昭和を超えて平成まで存続し、さらに今も疲弊しながらも続いているので。
――「女性は辞めたらどこへ行くの?」という疑問も寄せられています。つまり、借金を払い終えたら、ということですね。
高木 払い終えたら、そのまましばらく居着く子も多かったと聞いています。借金を払っている間は監視が厳しいですが、基本的には島で女の子というのは稼いでくれる存在なので、大切に扱われていたんですよ。
例えば居酒屋に飲みに女の子が行ったら、島の方たちが「あそこの置屋の子だね」といって奢ってくれたりとか。だから、ほとんど生活費をかけなくて暮らせる状態だった。島から出て他の風俗で働くより、知り合いもできたし、島にいたほうがいいと居着いちゃう。
――「口止めのために殺されたりすることはないの?」という質問もあります。
高木 ないと思います。やはり「女の子は稼いでくれる大切な商品」という考え方があるので、「よく頑張ってくれたね」と送り出す感じだったようです。
■女性はいま1人で行けるのか?
――視聴者からは「女性が1人で行くのは危険な場所ですよね」というコメントもよせられていますが、いまは実際どうなんですか?
高木 今は全く危ないということはなくて。置屋があっても開店休業状態みたいな感じなので、女性1人でも大丈夫ですね。今はカップルで訪れている人もいます。前回出演した「文春オンラインTV」でも話しましたが、2020年にジャニーズのNEWSの4人が『NEWSな2人』(TBS系)という番組のロケで訪れて以来、NEWSの聖地みたいな感じになっているくらいです。
――NEWSファンの女性たちは、渡鹿野島が「売春島」と呼ばれていたことは知らずに行っているんですかね。
高木 半々だと思います。いま「渡鹿野島」ってネットで打つと、「売春」みたいな感じで紐づいてくるので。でも、いまは何も怖いことはないです。
知り合いの中では、小説家の花房観音さんが、亡くなられた作家の勝谷誠彦さんの『 色街を呑む! 』(祥伝社文庫)を読んで、1人で売春島に行かれた。勝谷さんの本には「A島」として売春島の体験談が書かれているんです。
花房さんが「1人で行ってきました」と報告したら、勝谷さんは本当に全盛期のタブー視されていた時代に行っていますから「よく女1人で行くな!」と驚かれたそうです。ちなみに、花房さんは『 うかれ女島 』(新潮文庫)という売春島を舞台にしたサスペンス小説を書かれています。僕の本(『売春島』)では娼婦の話が1人、2人しか出てこないんですが、花房さんの小説は「女性から見た売春島」。僕の本と花房さんの本を一緒に読むと、この島がより立体的に見えると思います。
■2010年頃には「40代しか居なかった」
――「渡鹿野島では、どのような国の女性が働いていたのか?」という質問がきています。「外伝」の記事によれば、フィリピンの方とタイの方が多かったようですね。
高木 そうです。あとは韓国の方も一時期いたと聞いています。日本人女性との割合は、時代時代によって違うんですけど、大体半々ぐらいの割合だったようです。
やっぱり置屋さんとしては、外国人女性を入れたいんですよね。日本人の女性より給料が安くて、接客もいいので。ただ、外国人より若い日本人のほうがお客さんのウケはいい。でも、実際に遊んでいる男性からは「日本人は売られた子が多くて楽しくない」という声もあったようですね。
――外国の方は売られてきたわけではないんですか?
高木 外国の方は、売られたというよりは、外国から来る時点で借金があるわけですよ。だから働かなきゃいけないという状況でしょうね。いわゆる現地のブローカーに何百万かの借金をして、日本に行って何年間か稼いで帰るみたいなことですね。
――働いている女性の年齢層や容姿などについても質問がきています。
高木 全盛期はタレントとまでは行かないけれども、町の風俗店にはいないような普通の女性がいて、その子と恋愛っぽく一夜を共にできることで人気があったようです。フィリピンやタイの女性もすごくスタイルがよかったという話を聞いています。ただ、バブル崩壊以降、特に2000年に入ってからは島が疲弊していって、人気のある稼げる子は他の風俗に移ってしまって、島の店の女性は高齢化していきました。僕の知人も2010年頃にある地域の消防団の慰安旅行で行ったそうですが、娼婦は40代しか居なかったと話していました。
■島の公衆トイレに注射器が散乱していた時期も
――「島には薬物はあったりしたのか」という疑問も届いています。
高木 薬物に関しては、70年代から80年代頭ぐらいまでは結構多かったと聞いています。島の公衆トイレとかに注射器が散乱していたという証言もあって。昔は本当に何でもありの島だったみたいですね。ただ時代が変わっていき、次第に警察としても、置屋が自由恋愛を隠れ蓑に売春するのはともかく、薬物やさっき話に出た裏カジノなど明らかに非合法なものを積極的に取り締まらざるを得なくなったのだと思います。
カジノは、もともと置屋だった広いスナックにバカラの台を2つぐらい入れていたんですが、噂を聞きつけた警察官が島に来て、営業中の店の前で張り付いていたらしい。だから客が入れず開店休業状態で、半月で閉めることになった。そのカジノは島に来るお客さんのためではなく、島に居る女の子のためのギャンブル場。女の子が稼いでお金を持っちゃうと居なくなっちゃうので、ギャンブルで金を吸い上げて、また働いてもらおうという思惑ですね。
歌舞伎町など歓楽街にあるロジックですよね。ホスト、風俗嬢、キャバ嬢がお金を持っても、店終わりに裏カジノや裏スロに行って散財して、また明日頑張る。そうやってお金を同じところでグルグル回そうとしていたのでしょう。
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「文春オンラインTV」の動画は下記のリンクから無料で視聴できます。
文春オンラインTV 「最盛期の“ヤバい島”を体験した男が語った高揚感と恐怖 ベストセラー『売春島』筆者を直撃!」
(高木 瑞穂/Webオリジナル(特集班))
掲載元:三重に実在する“ヤバい島”は「異国情緒溢れるリトル歌舞伎町だった」全盛期に訪れた男たちが語ったリアル|ニフティニュース (nifty.com)
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