昨年11月、兵庫県尼崎市の風俗街「かんなみ新地」が、約70年の歴史に幕を下ろした。市と警察署からの営業中止の要請をきっかけとして、約30軒あった店は風俗営業を休止。その後、「かんなみ新地組合」が解散した。一部は一般の飲食店などとして営業を続けているものの、多くの店は廃業申請をすることになった。
歴史ある新地の営業停止は、関西の他の「新地」にも少なからず影響を及ぼしていた。大阪にある今里新地もその風波を受けたひとつだ。かつては芸事で栄えた色街はいま、どうなっているのか。
『娼婦たちから見た日本』(角川文庫)、『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)の著作で知られるノンフィクション作家・八木澤高明氏が現地を歩いた。(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む)
3年前は12軒あった茶屋が、現在は8軒に
3年ぶりの今里新地は、平日の夜ということもあるが、人通りはほとんどなかった。以前、話を聞いた遣り手のおばさんがいた店へと向かう。
相変わらず、店の屋号に明かりが灯っていたことに、ほっとした気分となる。店の前までくると、気持ちよく話を聞かせてくれたおばさんの姿はなく、違う遣り手のおばさんの姿があった。
「どうぞ、お入りになりますか」
私は、3年前にもここに来て、ちがうおばさんから話を聞いたことを伝えた。できれば、また話が聞きたいこと、取材者であることを告げた。
すると玄関横にある小部屋から、男性が顔を出した。
「ほんなら、私が話しましょうか」
男性は、茶屋の経営に携わっていて、話せる範囲で今里新地の現状について話してくれるという。
松山(仮名)と名乗った男性の年齢は50代で、今里新地からほど近い場所で生まれ育ったという。私は、お店からほど近い場所にある事務所へと案内された。
「コロナの流行で、現状はどうなんでしょうか?」
「大変だったですよ。閉めてくれといわれて、閉めなきゃいけない時もありましたね。最近は働いている女性も若い人たちが増えてきたこともあって、ここから盛り返そうと思っているんです。どうしても、飛田と比べると、年をいった人が働いている印象があるかもしれませんが、そんなことはないんですよ」
3年前は12軒の茶屋があったが、現在では8軒まで減ってしまったという。松山さんと今里新地の関わりについて尋ねた。
「大阪の繁華街といえばキタではなく今里だと言われた時代もあった」
「私の実家は、隣町なんですけど、よくケンカをしに来たんですよ。中学生の頃ですね。このあたりは、猪飼野も近くて、韓国の血が入ったのも多かったから、みんな喧嘩が強かったんです。根性が違うから、いつもやられてばっかでしたね。お茶屋さんも多くて、とても賑やかなところだったんですよ。働いている女性も大げさかもしれませんが、2000人以上はいたような雰囲気だったんです。
大阪の空襲でこの辺が焼けて、減ったそうですが、それでも多かったんです。ここから芸者さんを、京都の祇園に送ったり、北新地にも貸し出したそうですよ。海外でも大阪の繁華街といえばキタではなく今里だと言われた時代もあったと聞いています。その頃の活気までとは言いませんが、少しでも賑やかな時代に近づけたいと思っているんです」
にわかにそんな時代があったのかと、今の状況からは信じがたい話だった。松山さんの表情は真剣で、何としても今里を再興しようという思いが伝わってきた。
若い女性が今里に増えた理由は…?
「最近では働いている女性も若い方が増えたと言ってましたが、それはどうしてですか?」
「ひと昔前は、ややこしいこともあったんですよ。言ってみれば反社的な動きですよね。そういうのを一掃して、若い人たちが街を盛り上げようという思いがあるんですよ。それで若い女の子たちも気持ちよく働ける環境を整えたいと思っているんです。昔は、誰でも働きにおいでみたいな感じで、年がいった女性が多かったんです。今里行ったらババァしかおらんという噂も立っていました。
それを変えていこうと思って、若くて可愛らしい子に来てもらっているんです。平均年齢は30歳いってないちゃいますか。ただね、暗黙の了解でやらせてもらっているところもあるんで、目立ってもいけないですけどね」
「そうなると、盛り上げるのも大変ですよね」
「そうなんですよ。飛田とかと違って、ここは住宅街の中やから、わかりづらい場所でしょう。それに大々的に宣伝するわけにもいかないですからね。たまたまユーチューブに出たりとかね。それがブレイクして、それを見たってお客さんが来てくれたりしたんですよ。そうすると、お客さんいるんやって、女の子も働きに来てくれるようになったんです。
昔の関係者なら、黙っといてくれと、ユーチューブとかは絶対アカンかったと思うんですけどね。ただ、あくまでも、こちらからお願いしてやってもらっているわけではないですからね」
2025年大阪万博の影響は?
最近では、隣県のかんなみ新地が摘発されるなど、色街には厳しい状況が続いている。その点についてはどう思っているのだろうか。
「尼崎のかんなみ新地は戦後の青線からはじまって、風営法の許可を取っていなくて、言ってみれば闇でやってましたからね。もともとは労働者の街だった尼崎には必要な場所やったと思うんですが、どんどん街が変わっていって、新しい住民が増えたでしょう。女の人だと、この商売を毛嫌いする人もいてはるでしょう。そんな流れがあったんじゃないですかね」
大阪では、2025年に万博が開催される。大阪万博に向けて、西成区において覚醒剤や大麻などを売る露店が積極的に摘発されている。そうした国際的なイベントが行われる際には、色街の摘発がつきものである。
1970年に行われた大阪万博の際には、ソープランドが営業を禁止され、現在まで存在しない。果たして新地にも何らかの影響はあるのだろうか。
「こればっかりは何とも言えませんね」
その言葉に、問題なく万博を終えて欲しいという思いが込もっていた。
「ホテヘルより稼げる場所がある」と言われ今里へ
新地で働いている女性にも話を聞いてみたいと思い、松山さんが経営する茶屋に上がった。
布団の敷かれた部屋で十分ほど待っていると、「お待たせしました」と、黒髪でスレンダーな女性が入ってきた。
「レイと言います。よろしくお願いします」
松山さんが言ったように、爽やかな雰囲気を漂わせた、若い女性だった。彼女はコロナが流行していた2020年の暮れから、今里で働きはじめたという。
「それまでは、大阪でホテヘルをやっていたんですけど、その時の同僚からもっと稼げる場所があると言われて、ここにきたんです」
実際に働いてみて、どんな印象を抱いたのだろうか。
「お部屋でお客さんと2人きりになるのは、ホテヘルも一緒ですけど、馴染みのお茶屋さんで接客するので、守られているという安心感はありますね。それとホテヘルだと、ウェブで日記とかをアップしたりしないといけないんですけど、けっこう面倒くさかったんです。そういうことをしなくて済むのがいいですね」
「ここが私には、一番働きやすいですね」
そもそも、なぜ今里で働くようになったのか尋ねた。
「関東の出身なんですけど、向こうでキャバクラで働いている時に、大阪出身の男性と出会って、付き合うようになったんです。しばらくして、大阪で同棲をはじめたんですけど、すぐに別れたんです。戻ることも考えたんですけど、こっちで生活を始めたら、暮らしやすかったんでいようと思ったんです。それで前から風俗の仕事には興味があったので、ホテヘルに所属したんです。やっぱり、地元で風俗の仕事だと身バレしたりするのが怖いんで、できなかったんです。こっちだったら大丈夫かなっていうのがありました」
「今里以外に新地で、働いたことはなかったんですか?」
「ありますよ。信太山と松島で働きました。どちらも長く続きませんでしたね。特に松島は、初めて入った日に、すごいデブの子と一緒だったんですけど、なぜかその子にはお客さんがついて、私にはつかなかったので、心が折れて1日でやめました。信太山も何となくですけど、合わなかったんです。ここが私には、一番働きやすいですね」
「オミクロン株」が落とす暗い影
2020年の暮れから働きはじめた彼女だが、コロナが流行した昨年はどのような状況だったのだろうか。
「コロナが流行っている時は、お店が閉まっていたので、福原のソープに行っていました。けっこう向こうはお客さんの波が大きかったんですよ。1日、3000人とか感染者が出ている時でも、お客さんが来ない日はなかったんですけど、ここは、お店にでれば平均で10人ぐらいはいらしてくれるので、精神的に楽です」
「緊急事態宣言があけてからはどうですか?」
「お正月あけは、お客さんがすごかったですね。1日10人以上来てくれて、お昼ご飯を食べる時間だけ、休めました。コロナで来られなかった人がわっと来た感じです。それでもやっと、コロナ前の半分ぐらいに戻った感じでしょうか」
ただ、気がかりなのは、オミクロン株の影響だ。
「そうですね。またお店が閉まったら困るって、毎週来てくださるお客さんもいます。私も当然不安ですよ」
少しずつ活気を取り戻しつつある今里新地にオミクロン株の暗い影が、邪魔をしないことを願いたい。
掲載:https://news.yahoo.co.jp/articles/244f657a2cd636bf9128839e2c4c3b768e434a0e?page=1
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